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夜明け前のハセツネ

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夜明け前のハセツネ

日本山岳耐久レース長谷川恒男CUPは、もとは1990年ごろから始まった企画室の大都岳連構想において都岳連行事をどう活性化させるかという課題の議論の中で新しい行事を模索する中、始まっていました。

都岳連の「岳人祭」が年々参加団体が減ってきていることの危惧の中から、丹沢で昔行われていた山岳マラソンを復活させ、一方で低迷している国体の選手が発掘できれば一石二鳥で岳連の行事が活性するのではないかといったことから議論が始まりました。

企画室では1993年秋に正式に山岳レースを実施すべく、この年の5月18日の都岳連評議員会にプロジェクト予算を計上して一気に運動を盛り上げるために、たった5万円の研究費から立ち上げました。

評議員会で決定するや翌週の5月25日の理事会でレースプロジェクトの内容を提示し全理事の意思統一を図り、これを受けて具体的なプロジェクト内容を6月1日の常務理事会で山岳レースの中核たらんとする常務理事に対する理解を要請しました。

企画室の山岳レースプロジェクトが「都岳連の山岳レースプロジェクト」として発展的に発足し、都岳連全専門委員会に呼び掛け第1回会議が1993 年6月4日に奥多摩山岳レース(長谷川恒男CUP)プロジェクト会議として品川の勤労福祉会館において常務理事を中心として十数人が集まりました。

 

この山岳レースの構想は名誉会長に当時の鈴木俊一東京都知事を擁立し、大会委員長を小林勉当時都岳連会長、副会長の中から実行委員長を選出し、全専門委員会の委員長をテクニカルスタッフにそれを統括するチーフリーダー、サブリーダーといった陣容でした。

当初の大会名称は都岳連岳人祭「奥多摩山岳レース(長谷川恒男CUP)」でありましたが、議論の末に7月6日の理事会決定を受けて正式名称を「日本山岳耐久レース(24 時間以内)〜長谷川恒男CUP」として正式に発足しました。

競技の場所も議論され、5コースにしぼられ検討が進みました。

A案は当時、山岳同志会を始めとして盛んに走られていた金峰山から雲取山の奥秩父主脈約50?のコース。

これは縦に長すぎ管理が難しいことでボツになりました。

B案は奥多摩を起点に石尾根〜雲取山〜長沢背稜約40?のコース。

距離が短いのと当時の長沢背稜は道が悪く間違いやすいく、これもボツ。

C案は御岳〜奥多摩、E案は高尾山〜笹尾根〜三頭山、この両案も周回コースを望む声にボツとなりました。

D案が高尾駅を起点として南高尾山稜から北高尾山稜を周回する約30?のコースで、これは最後まで検討されたコースでしたが、日本山岳耐久レースというのに名前負けすることと、私たちが考えているよりも少しコースがコンパクトすぎ、最終的には現在の奥多摩主脈(三山)を回るコースに落ち着くことになりました。

現在のコースに決定した大きな理由は五日市を起点とした周回コースであり、安全上の競技管理がやりやすいことです。

道路の横断は五日市1ヶ所であり、その他は3本の林道。

物資の輸送とリタイア者の搬出が非常にスムーズにできるということが決定打でした。

また多くの東京の山岳会が御岳から高尾までのコースをカモシカ山行として利用していたこともあり、東京の山を中心に競技を行うのが都岳連としては当然だろうという意見もありました。

競技内容については国体のルールに合わせた荷物荷重レースやクライミングを途中に入れる案などが検討されましたが、安全対策重視の考えから現在の形が決定されました。

平行して大会を盛り上げることと、より多くの参加者を集めるために身障者登山大会や家族連れも参加できるコース等も考えられましたが、大岳山を回るハーフコースを入れることで実施が決まりました。

早速、実行委員会が招集され、正式陣容は森谷実行委員長、川嶋実行副委員長、松元財政部長、宮地事務局長、奈良運営部長、磯競技部長、森田レスキュー隊長を役員に145名の実行委員を集め、大会成功に向けて動き出しました。

大会の前途は役員の意欲だけが突っ走り、資金面や参加選手の募集等、お先は真っ暗な状態でスタートしましたが、マスコミ各社を駆けずり回り、フジテレビとTBSでの放映が決定しました。

ところが、メインスポンサーのスポニチは毎日系であることから、TBSはフジテレビの放映に対して難色を示し、森谷実行委員長と川嶋副委員長はこの調整に大変な苦労をすることになりました。

資金面では笹川スポーツ財団や全日警などから多大な協力金をいただきましたが、予定の一千万円近くの資金が集まらず、苦肉の策として加盟団体や役員から協力基金を借り受けし、多くの会員のご協力により浄財を集めさせていただきました。

ただ、もし参加選手が集まらないと大きな赤字が出てしまう懸念が残り、あと一歩の資金集めが活動の前進を阻みましたが、当時の監事の高橋早苗氏のご協力により資金面の目処が立つこととなりました。

参加選手の募集もはかどらず、各新聞に掲載依頼を続け、スポーツニッポンはもとより朝日、毎日と紹介記事を掲載していただき、最後に読売の全国紙にカラーの紹介記事が出るや事務局の電話は鳴り続けました。

こうして第1回大会は予定募集選手人員の300名を大きくふくらみ参加人数は耐久レース505名、ハーフレース291 名、総勢796 名のエントリーを集めました。

当日は台風一過の素晴らしい天気の中、テレビ放映もあり大成功のうちに終了。

協力金も順調に集まり、1年後には基金の返済もすべて済ませることができました。

大会はその後、コースを逆周りに変えたり、チームを半々に走らせたり、スタート時刻を朝から夕方に変えたりと細かい変遷を経て、運営や競技面では格段に進歩しつつ今日に至っています。

01 Prologue 宮地由文 日本山岳耐久レース長谷川恒男CUP実行委員 夜明け前のハセツネ

02 PLAY BACK 1993>2001 第1回〜9回 大会記録 伝説と冒険時代の始まり

03 PLAY BACK 2002>2011 第10回〜19回 大会記録 競技の高速化と新時代の到来

04 Rpilogue 長谷川昌美 日本山岳耐久レース長谷川恒男CUP実行委員 生き抜くことは冒険だ


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